【星空案内Tips】中国で語られる物語 『天河配』2018年07月13日

星空案内人制度のメーリングリストに、【星空案内Tips】などと、星空案内に役立つかなと思う内容を、思いつくまましたためてます。
今回、七夕についていろいろ調べて文章にしたので、記録として。
【星空案内Tips】「七夕」ものがたり ~中国で語られる物語 『天河配』~

 七夕物語の元祖、中国においては、様々な物語が語られるにつれ、混合・改編が行われ、現在は『天河配』に淘汰されているそうです。そして毎年(陰暦の)七夕には京劇で演じられる人気の演目となっています。
 その物語の概要は『星空案内人になろう!』にも紹介されていますが、詳しい物語を探すのはたいへんなので、物語の全体を、やや抜粋する形で紹介します。

『天河配』

 女神である織女星と男神である牛郎星は、互いに愛し合っていました。しかし、これは天の掟では許されないことでした。織女は、天の王母の孫娘だったからです。

 王母は二人に対する懲らしめとして、織女には「天の雲を織る」ことを命じ、一方 牛郎は下界に送ってしまいました。天の布を織る仕事を命じられた織女は、季節毎に異なった色の空を織り出さなくてはなりません。しかし織女は、下界に言ってしまった牛郎を思って、毎日泣いてばかりでいました。王母が牛郎を天に戻してくれることだけをひたすら願っていたのです。

 下界では、牛郎は農夫に生まれ変わっていました。両親は早くに死んでしまい、その上兄は牛郎に辛くあたりました。そしてとうとう、老いた牡牛を一頭与えて、一人で生きていけと、牛郎を家から追い出してしまいました。

 この牡牛は、実は牡牛の星から来た神でした。あるとき、突然牡牛が牛郎に話しかけました。
「私はあなたを十数年見守ってきました。あなたからの恩に報いるためです。」 しかし牛郎は、突然話しかけてきた牡牛の言葉を信じません。そこで牡牛は言いました。
「明日の正午碧蓮池に行きなさい。そこで美しい人に会うでしょう。」

 その頃、悲しみに沈んでいた織女は、仙女の勧めを受けて下界に降り、碧蓮池で水浴びをすることにしました。

 翌日牛郎が牡牛を連れて碧蓮池へ行くと、牡牛は言いました。
「音楽が聞こえませんか。あれは七人の仙女が歌っているのです。そこへ行き、 木にかかっている赤い服を持ち去りなさい。そうすれば仙女のは飛べなくなり、彼女はあなたと結婚するでしょう。」

 牛郎は、牡牛に言われたとおりに、木にかかっている赤い衣を奪って逃げました。赤い羽衣は織女のものでした。驚いた仙女たちは天へ逃げ帰りましたが、羽衣を奪われた織女は牛郎を追いかけました。牛郎に追いついた織女は、その男こそ長い間会いたくてたまらなかった愛する人だと、すぐに分かりました。二人は結婚して、互いに愛し合い、幸せに暮らしました。やがて二人は、男の子と女の子を一人ずる授かりました。

 王母はしばらく織女の姿を見ないで、織女の世話をする仙女たちに事情を聴くと知らないと言うばかり。怪しんだ王母は織女が下界にいること知り、衛兵を送って織女を天に連れ戻しました。

 牛郎は、牡牛の助けを借りて、妻を追って天てと飛んでいきました。王母は、付けていた髪飾りで空を引っ掻いて広い天の川を作り、牛郎と織女を両岸に引き離してしまいました。

 愛する二人は、こうして天の川によって永遠に隔てられたのです。しかし王母は、二人が年に一度だけ七月七日に会うことを許しました。その日には、たくさんの鵲が天に飛び立って、二人のために天の川に橋を架けます。


 現在の中国で『天河配』の物語がこれ一つだけなのかは分かりませんが、この京劇の動画が字幕付き(もちろん中国語)でYouTubeにあります。これを見ると、今の中国での七夕の楽しみ方が感じられます。
  https://www.youtube.com/watch?v=sxGe103k0Mc

【星空案内Tips】「七夕」ものがたり ~日本に伝わる物語その2~2018年07月06日

星空案内人制度のメーリングリストに、【星空案内Tips】などと、星空案内に役立つかなと思う内容を、思いつくまましたためてます。
今回、七夕についていろいろ調べて文章にしたので、記録として。

【星空案内Tips】「七夕」ものがたり ~日本に伝わる物語その2~

『御伽草紙』の『天稚彦草子』

 あまり知られていないと思いますが、日本の古典『御伽草紙』の中に七夕物語があります。天稚彦(あめわかひこ)の物語です。この物語には星もいくつか登場するので、それもおもしろいです。

 三人の美しい娘をもった長者のところへ巨大な蛇がやってきて、娘を嫁にくれないとお前を食うと脅す。長者が娘たちに事情を話すと、長女と次女は拒んだが、末娘は承諾した。末娘が蛇に指定された場所で待つと大蛇がやってきて、自分の首を切り落とすよう言う。言われたとおりに娘が蛇の首を切ると、蛇は美しい男の姿になった。

 娘と男(天稚彦草子)は楽しい日々を送る。ある日男は「私は本当は海龍王で、空にも通じている。この度行くところがあって、数日空へ行ってくる。七日経っても心配するな。ふた七日(2週)かかるかもしれない。三七日(3週)はかからないと思う」と言い、「もしその時は、西の京にいる女が一夜杓(いちやひさご)を持っている。それを使って空へ登ってきなさい。そして天稚彦のいるところはどこか尋ねると良い」と言い、また「この唐櫃(からびつ、物入れ)を絶対に開けてはならない。これを開けると帰ってこないだろう。」とも言った。

天稚彦が空へ行った頃に、二人の姉が末娘の様子を見に来た。さぞ恐ろしい目にあっていると思ったら、裕福な楽しい日々を送っていたので妬ましく思い、いろんなところを開けて中を見た。しかし末娘が唐櫃を開けさせないので、くすぐって鍵を見つけて、唐櫃を開けてしまった。しかし中は空で、ただ煙が出ただけだった。そのため、約束の日が来ても、天稚彦は帰ってこなかった。

 三の七日経った後、末娘は西の女のところへ行き、一夜杓に乗って空に上った。天の登ると、白い狩衣を着た見栄えの良い男に会った。「天稚彦のいらっしゃるところはどこですか」と尋ねると「私は知りません。次に会った人に問いなさい」と言った。娘が「あなたはどなたですか」と聞くと、「夕づつ(宵の明星)」と言った。

 次にほうきが来たので同じように聞いたが「私は知らない。この後会う人に問え。私はほうき星だ。」と言って過ぎていった。また人に会ったので同じように聞くとこの人も同じように答え、「私はすばる星」と言って過ぎていった。娘が不安になっていると、立派な玉の輿に乗った人に出会ったので尋ねると、「これより奥に行くと、瑠璃の大地に宝玉の宮殿がある。そこへ行って天稚彦を
尋ねなさい。」と言った。(異伝によると、この人は明けの明星)

 言われた通りに宮殿に行くと、ようやく天稚彦に会うことができた。天稚彦も会いたいと思っていたと、互いに慰めあった。その後、天稚彦は言った。しかし心苦しいことに、天稚彦の父は鬼だったのでした。何日か経つと父がやって来た。「娑婆の(人の)臭いがする。」と言ったが、立ち去った。その後もたびたび父鬼がやって来、その度に天稚彦は娘をいろいろなものに変身させていたが、それに感づいた父鬼はある日足音を忍ばせてやって来た。その時天稚彦は昼寝をしていたので隠すことができず見つかってしまった。天稚彦はありのままに言ったが父鬼は娘を、自分の世話をするために連れて行くという。天稚彦は娘に自分の袖を与えて「何かあったら『天稚彦の袖』と言って振れ」と教えた。父鬼に連れられていった娘はいくつもの苦行を言われるが、天稚彦の袖で難なくこなした。

 これを見た父鬼は元のように住むことを許しました。その際「月に一度」と言ったものを娘が聞き違えて「年に一度と仰せられるのですか」と言ったので、父鬼は「そうだ、年に一度だ」として、瓜と投げつけた。瓜が割れるとそこから水があふれ出して天の川となって二人を隔てた。そうして二人は「七夕彦星」として年に一度、七月七日に会うのでした。

 長文になりましたが、当然ながら原文はもっと詳しく長いです。でもおもしろいですね。なんか、『ジャックと豆の木』やら、「ギリシャ神話」からいろんな話を持ち込んだような、寄せ集め感満載の物語ですが、これが鎌倉時代~江戸時代に書かれた本に載っているというのはとても興味深いです。

「天稚彦」の名は『古事記』や『日本書紀』にも出てきますが、単に同じ名前という感じです。

『天稚彦物語』は、男女の立場が逆ですが、
・男女が夫婦になった後、一方が天に戻る
・その人を追って、蔓のようなもので天に上る
・二人は天で再会するが、親に条件付きで年に一度だけ会うようになる
・「七日に一度」とか「月に一度」を「七月七日に」とか「年に一度」と
 聞き間違え(伝え間違え)、そのために年に一度、七月七日だけ会うようになる
という設定が他の七夕物語に見えます。

【星空案内Tips】「七夕」ものがたり ~日本に伝わる物語その1~2018年07月04日

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今回、七夕についていろいろ調べて文章にしたので、記録として。

【星空案内Tips】「七夕」ものがたり ~日本に伝わる物語その1~

 日本で語られる七夕物語はいくつかに分類されます。その中のおそらく一番知られているものは、中国に伝わる七夕物語の中で、最も古いものといえます。6世紀頃の中国南方の荊楚(けいそ)地方(長江中流域)の年中行事をまとめた『荊楚歳時記』に、次のように書かれているといいます

 天の河の東に織女がいる。彼女は天帝の娘である。毎年毎年、機織り仕事に精を出し、雲の錦による天衣を織り出していた。天帝は彼女が独り身であることを哀れんで、天の河の西の牽牛郎と結婚させてやった。お嫁にいってからは、彼女は機織りの仕事を全く止めてしまった。天帝はそうした彼女に腹を立てて叱り、天の河の東側に戻らせた。ただ毎年一度だけ、七月七日の夜に、天の河を渡って牽牛と会うのである。

 この物語では、結婚後に仕事をしなくなったのは織女だけだったようです。なおここでは、織女は「天の河の東に」、牽牛郎は「天の河の西に」いるとあります。研究者は「これは誤り」としていますが、私はこれを、天球の外から見たときの東西ではないかと思います。

 この文章は『中国神話研究ABC』(玄珠、1926)や『中国古代神話』(袁河、1957)などに引かれているそうですが、現在流通している『荊楚歳時記』には書かれていません。日本では東洋文庫が出版していますが、この文章はありません。

 ところで、この物語から派生したと思われる内容のものが1925年に鐘敬文教授が広東省陸安に伝わる物語として書いた「陸安伝説」があります。

  牛郎(牽牛)と織女とは、天上の一組の美しく賢い若者たちであった。
 彼らがまだ結婚をせぬ時には、二人とも一所懸命にそれぞれの仕事に精を出していた。
 牛郎は牛を飼い、織女は機を織ったのである。天帝は、二人のけなげな生活ぶりを見て、
 彼らを夫婦にしてやった。ところがどうしたことか、結婚したあと、二人は仲良く
 してばかりいて仕事はちっともしなくなった。やがてこうしたありさまが知れると、
 天帝はひどく立腹し、すぐさま命令を下し、鳥を彼らのところにさしむけ、
 今後、二人は河の両側にいて七日に一度だけ河を渡って会うことを許すと伝えさせた。
 鳥は、言葉がうまくしゃべれぬ鳥で、このとき天帝の命令を受けると、あわてて
 二人が一緒にいるとこをに飛んでいき、ちゃんと七日ごとに会うと言うべきところを
 間違って七月七日に一度だけ会うようにと伝えた。それからは、二人は年ごとに
 一度しか会えなくなった。名田端のお祭のあと、鳥の羽根は、みな抜けてつるつるに
 なってしまう。これま毎年のように見られる現象である。どうしたわけなのであろう。
 それは二人が、間違った命令をツタwらレ他ことに対してお返しをしているのである。

 この物語の前半が、こんにち日本でよく知られる内容に近いものです。しかし後半の鳥の羽根の部分は日本では語られていません。これは、この「鳥」の事情によるかもしれません。ここでいう「鳥」とは「カササギ」のことで、中国では街中でよく見られますが、日本では九州でしか見られません。日本では「カラス」に相当する鳥です。日本でも古くはカラスは天の神様の使いと見られていました。

七夕飾りの意味2016年07月08日

7月7日にラジオ番組で、七夕飾りの意味を紹介していました。飾りに意味があったんですね。
放送を録画できなかったので、ネットで調べてみました。


1.吹き流し


 吹き流しは織り姫の織り糸を象徴するもので、機織りや習い事の上達を願ったもの。

2.巾着


 昔の金銭類を入れた袋。節約やお金が貯まるようにとの願い。

3.投網


 豊漁の祈りと、幸運をたぐり寄せるという意味が込められている。

4.くずかご


 七夕飾りを作り終えたときにでた紙くずなどを拾い集めてくずかごの中に入れたことにより、
 整理整頓、清潔と倹約の祈りが込められている。

5.折鶴


 家族の延命長寿の意味のほかに、
 折り方を学ぶことで、人から教わる心と、人に教える心を学んだ。

6.紙衣


 織物を織る穢れを知らない女性を棚機津女(たなばたつめ)と呼び、
 その女性が織って紙に捧げた衣をさす。
 この衣は、笹の葉飾りの中でも一番上に飾る習慣があるという。
 主な願いは、裁縫の上達や、着る物に不自由しないようにという願いが込められている。

7.短冊


 サトイモの葉にたまった夜露に墨を溶かし、古くは神聖な象徴でもある梶(カジ)の木の葉に
 和歌を書いて願いを綴っていた。
 江戸時代には庶民の間に広がり、「陰陽五行説」に由来する五色の短冊に習い事の上達を
 願った。


私が昔読んだ日本の年中行事の本に、「晴れた夜の翌朝にサトイモなどの葉にたまった夜露を ”星の露” と呼び、日が昇ると空へ帰ると考えられていた。七夕の朝には、子どもたちは朝早くにサトイモの葉にたまった夜露を集めて、その水で墨を磨り短冊に願い事を書いた。その願い事は、夜露が空へ昇って天の神のもとに届くと考えられていた。」というものがありました。とても納得できる話でした。

しかしその本がどれなのか再確認できずにいます。図書館でも、たぶん古い本なので、倉庫に移ったのかもしれません。”星の露” という言葉などは他の本では一切見つからず、ネット検索でもひっかかりません。以前、福岡県で「星の露」という焼酎を販売したことがありましたが、これも今は無いようです。
どこかで ”星の露” という言葉と再会したいものです。

七夕 その52014年10月17日

日本の民間行事や信仰については、「民俗学」の開祖・柳田邦夫を外すわけにはいきません。
しかし、氏の全集に収められた文書はあまりに多く、特定のことについて書かれたことを探るのは難儀です。それでも、その中から、七夕について書かれたものを探ってみました。

『定本 柳田邦夫集 第十三巻』

『年中行事覺書』
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p.34-35
  餅と祝い

 盆の七月の七夕といふ日に、二つの星が銀河を渡って相會するなどといふ話は、書物を読んだ人が知って居るだけで、數からいふと十分の一にも足らぬ人がさう言つたのである。多くの村々の年中行事は、實は近頃までそれとは無関係に行はれて居た。大體からいふと、墓薙ぎ盆道作りなど、十五日の先祖の訪問の待受けに力を傾けて居たが、同じ序を以て井戸替へ蟲拂ひ、この日を洗ふと汚れがよく落ちるといつて、女たちは必ず髪を洗つた。七夕送りと稱して色々の好ましからぬものを送り出し、盆を清らかな日にしようとしたことは、正月前の煤拂ひともよく似て居る。
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柳田のこの記述は、七夕行事の歴史を調べる際に、とても重要です。氏が民俗調査を行った昭和始めの頃ですら、民間では「七夕」というと、牽牛織女の祭りではなく、盆の前の清めの行事として行われていた、ということなんですね。

同書には『眠り流し考』という、七月七日の行事について書かれたものもあります。

また、七月七日の行事として『犬飼七夕譚』もあります。
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p.95-

 七月七日の朝、畠へ入ってはならぬといふ昔からの言傳へは、農村としてはさほど珍しい話でないかも知れぬ。他にも十月の十日、大根畠に入るべからずといふ類の、農作の制止は例が多いのみならず、(中略)
ここで問題になるのはこの七夕の場合だけに限つて、是は條件が添ひ又特殊の解説が出来て居ることで、よそにも同じやうな話は残つて居るだらうが、信州の例だけが現在は知られて居る。多分はそういふ物忌のもとの意味が、誰にもわからなくなつてから後の変化で、是も亦我々の通つて来た永い年月の精神生活を、同顧する目標には役立つのである。

p.105-
 終りに問題として残るのは七月七日の朝、瓜大角豆の畠に入つてはならぬといふ信州の俗信に、隠れて影響を與へて居る七夕の由来が、いつから又如何なる因縁で、この世界的な羽衣説話と、結合することになつたかである。是は私の一つの假想であるが、人と天上との交通を説くのに、瓜や豆の蔓の極度の成長と、是を梯子として往来したといふことが、可なり夙くから用ゐられた一つの趣向であつた。一方に野菜はちやうど此季節の初物であり、殊に瓜類は夏の神と縁が深く、之を七日の節供の缺くべからざる供物として居た為に、自然に両者の間に聯想の橋を架けたので無からうかと思ふ。
 今一つの繋がりには、犬飼といふことが算へられる。犬と羽衣との関係は前に挙げた鹿の助言も同様に、最初はただ単なる動物の援助の一例だつたかも知れぬが、日本では既に近江の余吾湖の昔語りもあつて、犬が大切な役割をもつことになつて居る。さうして一方には支那で謂ふ牽牛星即ち彦星を、又犬飼星と呼ぶことは、少なくとも倭名鈔の昔からである。是にも何か特別の説話があつたらしいが、それはもう埋もれてしまつて、ただこの二つの言傳へを、混同せしめる因縁になつて居るのである。
 御伽草子の天稚彦物語は、羽衣とは反対に人間の美しい少女が、天上に嫁入する説話であるが、其の結末にはやはり月に一度と男神の言ふのを、一年に一度と聴きちがへて、怒つて薦を投げたら化して天の川となつたといふ條がある。即ち信州の七夕昔話のアマノジャクの中言も、起源は四五百年前に遡り得るのである。肥後の天草の犬飼さんが聾といふことも、やはり此趣向の系統に属する。妻のたなばたひめが別れに臨んで、月に三度は逢ひませうと言つたのを、聞きそこなつて三年に三度とやと答へたので、それから七月七日にしか逢へなくなつたという點は、即ち亦天稚彦の草紙と同じであつた。或はこの犬飼が妻の逃げ去るのを妨げる為に、其羽衣を畠の土の中に、埋めて置いたといふ話といふのは、まことに農民らしい空想であつた。信州の多くの田舎にも、以前は多分斯ういふ類の笑話が、出来て盛んに騙られて居たものであらう。
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う~~~ 旧漢字は入力が大変だぁ(*_*;

七夕物語 その42014年10月14日

『日本民俗文化体系9 暦と歳時記 =日本人の季節感覚=』

この本では、七夕について特に詳しく扱っていませんが、昔の日本人にとっての暦や年中行事の考えについて詳しく書かれていて、「行事」というものについて考える手助けになります。

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p.27
休みの日の意義
 明治六年(1873)以降、国家次元で制定された国民祝祭日が、暦の主要な折り目にあたり、休日といえば、国旗を掲げる日だと思いこまされるようになった。本来休日は、休み日である。古く斎宮斎院の忌詞(いみことば)として『延喜式』にのせられているのを見ると、病のことをヤスムと訓じている。
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これは、私としては存外の驚きでした。確かに農家の生活を見ると、会社人と違って、「休日」というものはありません。少し前の大工さんも、休みは毎月15日と、月末に給料をもらった翌日の1日と、盆・正月でだけしたっけ。

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p.29
近世「遊日定」と遊日の解釈
 ところで近世の前記の農村資料などには、休み日という表記は少なく、いずれも「遊日」とされている。村の規約の中には、「遊日定」があり、遊日をどの日にするか一つの規制を行っている。いわば法慣習というべき存在なのである。
 次に興味深い事例を吟味したい。これは貞享二年(1685)『地下萬定書上帳』にのせられた「定る遊日 ならびに 祝い日之事」の一条である。それによると、
 正月一~一五日、一五日(もちの正月)、一六日(大斎日)、二〇日(廿日正月)。
 二月一日(次郎朔日)、八日(事始)、一五日(釈迦の涅槃)、彼岸中日(遊ひ日)。
 三月三日、一五日(田打あそひ)。
 四月六日(釈迦誕生日・薬師縁日)。
 五月五日・。その他に「田植時分に指合候へハ不遊田植早苗破とて一日遊」日がある。
 六月一日(ムケノツイタチ)、一五日(祇園会)。
 七月七日(たなばた)、一四・一五・一六日(盆)。
 八月一日(タノミゴトノツイタチ)、一五日(鎮守祭礼)。
 
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これによると、七月七日を「七夕」として祭る日とされていたことが分かります。ただし、中国伝来の乞巧奠由来ではなく、日本古来の農村行事だったようです。
その一方、八月一五日の「中秋の名月」は休みの日とはされていないようです。もっとも、お月見で仕事を休む必要はありませんが。

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p.175
ネブタナガシとネブイハナシ
 七夕の日、旧暦七月七日のネブタ祭りのネブタ祭りは東北を代表する祭りとして有名であるが、このネブタという言葉はネブタナガシ(眠た流し)という七夕の民俗行事に由来することはあまり知られていない。
p.178
 ネブタナガシ、ネブイハナシが水神の祭りであり、そのことは七夕が水神の祭りであることを教えている。・・・
(5)岡山県真庭郡八束村八束 七月六日にはたなばた飾りをする。栗、里芋、稲、ササゲ、ホオズキなどを供え、ナスの牛、キュウリの馬、ミョウガの鶏などを作って供える。七日にはたなばた流しといって飾りを流す。また川に入る。牛も洗ってやる。七回水浴びをする。ボタモチを七夕棚に供える。それを子どもが盗んで食べた。これをたなばた荒しという。
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「第七章 アジアの祭りと行事」では、中国での七夕、乞巧奠が紹介されています(p.454)。

また「満月の祭事-上元」では、上元(一月一五日)・中元(七月一五日)・下元(一〇月一五日)について触れられ、次の「満月の祭事-中元」に中秋節のことが書かれています。貴重な文献です。

七夕物語 その32014年10月13日

『年中行事読本 -日本の四季を愉しむ歳時ごよみ』(岡田芳郎、松井吉昭著、創元社、2013)

著者の一人、岡田芳郎氏は暦研究の第一人者で、多くの著書があります。著者紹介によれば、「暦の会」の会長だとか。なるほど~。

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p.186~187
【七夕(たなばた、しちせき)】

 この日のころは雨のことが多い
 旧暦で行えば天気・月ともよく、星を眺めるのによい

 月の運行に合わせつくられた旧暦(太陰太陽暦)による伝統行事は、旧暦の日付に合わせて行わないと実感が湧かない--その一例がこの七夕(たなばた、しちせき)です。
 この日、子どもたちは、願い事を書いた短冊や色紙などを笹竹に飾りつけます。いそいそと七夕飾りを飾っても、この日のころの日本列島は梅雨時で、天の川がもっとも見えにくいのです。その点、旧暦の七月七日なら、天気もよく、「上弦の月」がちょうといいタイミングで現れ、早めに沈んでくれて、暗い夜空に星を眺めるには好都合です。
 現在、七夕は新暦の七月七日と、月遅れの八月に行う地域の両方があります。新暦で行われているのは、神奈川県の平塚七夕祭り、京都・北野天満宮の七夕祭などです。月遅れで行われているのは、仙台七夕祭り、富山県高岡市の七夕祭(八月一日~七日)などです。
 七夕の起源についてご説明しましょう。これには二系統あります。
 一つは星祭りに関係した、牽牛星と織女星の星祭り伝説と、若い女性が手仕事の上達を願う乞巧奠の習合です。
 伝説によりますと、機織りに励んでいた織女を、父の天帝が牽牛と結婚させたところ、あまりに夫婦の仲が睦まじく、織女は遊んでばかりでした。怒った天帝は二人を天の川を挟んで東と西に分かれて住まわせました。別居させられた二人には、一年に一度、七月七日の夜だけ逢瀬を許したと伝えられています。
 この説話は奈良時代に日本に伝わって、『万葉集』には多くの歌が収められています。機織は棚型ですから、織女のことを「たなばたつめ」(棚機つ女)と呼んだのが「たなばた」の語源です。
 
 乞巧奠は、若い女性が手芸の上達を祈る中国の風習で、七月七日の夜、供え物をして織女星を祀り、裁縫や習字などの上達を願う行事です。日本では、奈良時代に中国から伝わり、宮廷で取り入れられ、やがて民間にも普及しました。
 七夕の起源のもう一つは、日本の旧暦七月の盆(盂蘭盆会)の祖霊供養につながるものです。お盆に先立って、まず穢れを清める禊が行われます。そのため各地で、水辺での行事が多くみられます。たとえば、東北地方ではこの日を女性が髪を洗う日とし、また、近畿地方では人や家畜の水浴びをする日とするなど、この日に身を清め、穢れを祓おうとした江戸時代の習俗が伝えられています。
 以上のように、中国伝来の風習と日本古来の風習とが習合して、七夕の行事が今日のように広く行われるようになりました。

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最近出版の本で、現在、一般に知られているような七夕のことが平易に書かれています。まぁ、年中行事を紹介する本ですから、その趣旨として的確な文章だと思います。

七夕物語 その22014年10月12日

「七夕物語 その1(6/20)の続き

『中国の民俗学』(直江広治著、民俗民芸双書)

中国の七夕行事について、とても詳しく書かれている、とても良い参考文献です。昭和25年の原稿ということで、現地調査も行っているようです。民俗学では、古い調査資料がとても役に立つんですよね。

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  五 七夕と牽牛織女説話

p.62

古いしきたりを守る家では、七日の夕方 星がきらめき出す頃、院子(内庭)に机を持ち出し その上に甜瓜(てんか、マクワウリ)や西瓜(スイカ)など季節の果物を陳べる。女の子はその前で焼香叩頭(線香を焚きおじぎをする)してから、針に糸を通すのであるが、巧く一度で通れば裁縫や詩集が上手になれるという。あるいは水を入れた茶碗を机に供えて、焼香叩頭してから針を一本椀に投じ、その針の沈み方で手芸の上達を占う方法も行われている。

この習慣は非常に古くから行われていたらしく、『東京夢華録』という書物には「唐時京師七夕、貴家多結線楼於庭、穿七孔針、陳瓜果於庭中、以乞巧。有蟢子網瓜上、則以為得謂之乞巧楼。」とあり、また『東京歳時記』には「七夕孔針、結為七巧棚。」と見えている。さらに古くは『荊楚歳時記』に「七夕婦人結糸楼、穿七孔針、陳瓜果於庭中、以乞巧。有蟢子網於瓜上、則以為得。」とあるから、古くは富家は庭に綵楼(さいろう)すなわち色あざやかな臨時の小屋を作って、その中で針に糸を通す行事をいとなんでいたらしい。乞巧(きっこう)すなわち手芸の上達を乞うという意味から、この七夕祭のことを古くから乞巧節と呼んできた。この乞巧の習俗は今でも華北の各地で見られるが、揚子江流域でも七夕に「月下穿針」の習俗を伝えている。

p.63

七夕にもし雨が降れば、それは牽牛織女の流した涙であるという言い伝えは、国の南北を通じて同様である。北京附近では、もしこの日曇りだと、朝早く葡萄畑の下に行くと、十歳以下の子どもには牽牛織女の泣き声が聞えると伝えている。これが浙江省の田舎に行くと、葡萄畑でなくて茄子になっている。七夕の夜、茄子の下で耳を澄すと、牽牛織女のささやきやむせび泣きの声が聞えてくるというふうになっている。しかし何といってもこの乞巧節でもっとも印象の深いのは牽牛織女の婚姻譚であろう。

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タナバタの起源2014年09月23日

先日ネット検索サーフィンをしていたら、興味深いサイトを見つけました。
ずいぶん前に「秀真伝(ホツマツタエ)」という本で知った、ホツマ文書(?)を研究しているサイトです。

そのサイトでは「ヲシテ」と書いていたので、Wiki検索してみたら、「ホツマツタエ」は「ヲシテ文書」の一つで、しかも私が読んだ本の著者は、「ヲシテ文献」を偽書の「古史古伝」の一つに貶めた駄本だったとか(*_*;

ところで、今回見つけた興味深いサイトというのは、「ヲシテ文書」の一つ、「ミカサフミ」の中に七夕祭りのことが書かれていて、タナバタは実は日本に古くからあるマツリであった、ということでした。

七夕は、一般に、中国起源の「乞巧奠(きっこうでん)」が奈良時代に日本に伝わった後、日本に元々あった、山の神が降りてくるのを迎える女性(巫女)が、川にかけられた棚造りの小屋で機織りをする「棚機女(タナバタツメ)」の行事と習合して、「七夕(シチセキ)」が「タナバタ」と呼ばれるようになった、と言われます。
例えば、こんな詳しいサイトがあります。 http://tanabata777.com/yurai/tanabatatume.html

そしてさらに、古事記に「オトタナバタ」(淤登多那婆多、弟棚機、乙登多奈婆多)と書かれていることから、タナバタは「日本に古くからある」とされています。

ところが、よく考えると、古事記については「その名のような語句が登場する」程度のもので、タナバタが古事記編纂の時代まで遡るという証拠にはなりません。

また、日本に、「山の神を、棚機女が機織りをして迎える」ということが行われていたことが書かれている文献が全く見つかりません。そう書いているどの本でもサイトでも、その典拠が書かれることはありません。
私が推測しているのは、日本各地の民俗を大規模に調査した、柳田邦夫さんの本に書かれているのではないかと。

そんなときに見つけた「ヲシテ文書」の内容は、ちょっと食指が動きました。

上記ページには、だいたい次のようなことが書かれています。ちなみに「ヲシテ」を研究している団体は、文献に書かれた内容には、「真実だから書かれている」というスタンスです。


「ヲシテ文書」の一つ「ミカサフミ」の中に、1年中の御奉り(ヲシテでは「ナメトコ」)が書き記されているそうです。

「ヲシテ文字」は、カナ文字に置き換えられる「表音文字」なので、その音の意味から内容を読み取ります。また古代日本語は、音が同じ文字は同様の意味がある、と解釈します。

上の文書は、次のように読まれます。
・アフミマヅ:7月(フミヅキ)はまず
・フメニヤワシテ:ふたつもメ(寒さ)が現れて
・カゼトナス
・ユミハリニウム:弓張月の日(つまり七日)にウム(紡ぐ)
・イウトアサ:イウ(木綿)とアサ(麻)
・ヲトタナハタノ:ヲ(目に見えないつながり)とタナハタの
・ホシマツリ:星御奉り

「ヲシテ文書」の一つ「ホツマツタエ」の中に、機織りは古代から女性に託された神聖な仕事とされていたそうです。上(神)はアマテルカミ(天照大神)から、タミ(民)の女性に至るまでが行う、アメノノリ(天の法則)を目に見える形にするという、尊い仕事だった、といいます。

続き。
・モチハミヲヤト:モチ(満月)はミオヤ(御親、両親や祖父母)と
・イキタマニ:「イキタマ(感謝の心を捧げて)」
・エナノハスケノ
・メヲアエハ
・アオギオドリテ:仰ぎ、踊りて
・イオウクル:イ(宇宙のエネルギー)を受ける

これは、七月十五日(満月の日)には、御親(両親や祖父母、そして祖先)に感謝の心を捧げて、ナントカカントカして、踊りを行って宇宙のエネルギーを受ける、という、お盆の行事と盆踊りについて書かれている、といいます。

ただ、気になるのは、最後の文「イオウクル」は、「イヲウクル」ではないのが気になりますが(^^;

まぁ、興味深い内容ではありますが、私自身そもそも「ヲシテ文書」については懐疑的なので、「そんな記事もあるんだなぁ~」てな感じです(^-^)

中国の七夕物語「天河配」2014年08月21日

星空案内人講座の「星空の文化に親しもう」の新テキストを作成中。
そろそろ完成まぎわですが、七夕物語で元ネタの確認に難儀しています。

日本でよく知られている物語は、jp.Wikipediaなどネットにも載っていますが、『あの星はなにに見える?』(出雲晶子、白水社)に拠りました。

一方、中国で現在よく知られて京劇で演じられる「天河配」の物語が確認できません。ネットには日本語では1ページのみ。中国語のページはよく分かりません(^^;
『星空案内人になろう!』に柴田さんの書かれた物語があるのですが、文字数の関係でこれをさらに簡潔に書かないといけないのです。
最近入手した『アジアの星物語』(万葉舎)には詳しい物語が載っているのですが、これは数あるバリエーションの一つか?
『西王母と七夕伝承』(小南一郎、平凡社)には、いろいろな物語が出典も着いて載っているのですが、それが『天河配』なのか。

そこで、YouTubeで『天河配』の京劇を観てみることにしました。もっとも中国語なので何を話しているかは分かりませんが、映像ややり取りから話は分かります。

すると、『アジアの星物語』に載っている内容が、まさに京劇の『天河配』であることが分かりました! これで出典を安心してテキストに掲載することができます。
それにしても、古い物語からずいぶんと変化してしまったものなんですね。