「星座」の呼び方のはじまり2018年01月18日

たまたま石田五郎氏の『天文屋渡世』を開いたら、ある文に目が留まった。
 星座についてのリマーク
  ところで、この星座という言葉は constellation の訳語であるが、古くは中国にならって星宿
  とよんでいたようである。これが、白鳥座、乙女座、獅子座などと「座」という時にのせてよぶ
  ようになったのはいつからであろうか。

石田氏の疑問は、江戸時代までは中国由来の「星宿」と呼んでいたが、 西洋から constellation が輸入された時、いつから「座」を付けた星座名を使うようになったか、という疑問でした。これはおそらく、石田氏も書かれているように、江戸末期の蘭学者か、明治初期の誰かからであろうと思われるので、その頃に日本で発行された天文書を見られれば判明すると思うのですが、ハテ、どこへ行けば見られるのかな?

ところでこれを読んで私が気になったのは、中国ではもともと「星座」を「星官」や「星宿」と呼んでいたのですが、では、いつ、どこで「星座」という語が使われるようになったのか、ということ。

図書館で『大字源』を見ると、紀元前91年に編纂された司馬遷による歴史書『史記』の『天官書』に由来するとありました。『広辞苑』でも同じです。
そこで『史記 上』(中国古典文学大系)にある『天官書』にあたると、次のようにありました。
 古代からの大体の歴史
  紫宮・房・心・権・衡・咸池・虚・危の星座は天の五官が位置する処である。
『史記』『天官書』の中で「星座」の語が出てくるのはこの一箇所だけでした。しかも唐突に。

そこで『史記』『天官書』の原本である漢文のもので確認してみました。
   故紫宮、房心、權衡、咸池、虛危列宿部星,此天之五官坐位也
これを見ると、「坐」としか書かれてなく、「星座」とはありませんでした。本当に『史記』が「星座」の出所なのでしょうか?

そこでさらに調べたところ、民国92年(2003年)の『中正歴史学』刊の「≪史記・天官書≫讀書隅記」という論文を見つけました。その中に、唐代に司馬貞が書いた『史記』の注釈書『史記索隠』の『天官』の中に次のようにあるとのことでした。
  天文有五官。官者,星官也。星座有尊卑,若人之官曹列位,故曰天官。
ここに「星座に尊卑あり」と書かれています。この言葉は中国での「星座」の意味としてよく使われる説明です。

ネットの「維基文庫,自由的圖書館」で『史記索隠』の本文が見られたのですが、そこには次のように書かれてありました。
  天文有五官官者星官也星厯有尊卑
ピンイン文字なので、「星厯」が「星座」のことなのかは分りません。

以上をみると、「星座」という文字は、司馬遷の『史記』由来ではなく、司馬貞の『史記索隠』由来なのかもしれません。もっと詳しく分るとイイのですが。

古代エジプトでの日食の神話記録2017年11月04日

昨日の、古代エジプトの日食の記録の日記を書くにあたって、エジプトの神話の中での日食の記録に見つけたので、記録しておきます。

古代エジプトでは、日食はアポピス(Apophis)という大蛇が太陽神ラーの乗る船を飲み込むことで起こると考えられていました。
エジプトでは、王権の守護者であるコブラ以外の蛇は全てアポピスの眷属とされ、忌まわしいもの、恐ろしいものでした。そのためアポピスが壁画に描かれるときは必ず「縛り付けられる」か「調伏されている」姿として、自由に動き回れないようにしていました。

  縛り付けられたアポピス

  調伏されたアポピス

アポピスを退けるために、アポピスの起こす様々な災いとそれに対しての呪文が書かれた『アポピスの書』があり、その中に日食がアポピスにより起こることと、それを解消させるための呪文が書かれているそうです。

テーベ西岸、ディル・エル・メディーナにある貴族インヘルカの墓(第20王朝)に、日食を描いた壁画があります。
  太陽を象徴する聖なる木、シカモア・イチジクあるいはペルセアの樹を
  とりまくアポピスを倒す「ヘリオポリスに住む太陽神ラーの大いなる雄猫」。
   (死者の書17章)

死者の書の文章には
 ラーの敵なるアポピスが滅ぼされし夜、イシェドの樹の下でアポピスと戦った者は私、
 偉大なる猫にしてラーそのものである
といった内容のことが書かれています。

togetterサイトの「古代エジプトの日食の記録は極少ない」ではたくさんの情報が紹介されています。

古代エジプトの日食の記録2017年11月02日

今回も、ネットニュースから。

世界最古の日食が起こった日付を特定、古代エジプトの歴史が修正される可能性

記事によると、研究者が旧約聖書の「ヨシュア記」の記載に新しい解釈を与えて、それが古代エジプトで起きた日食の記述であるとし、その日付と特定した、ということです。

「ヨシュア記」の中で、ヨシュアがイスラエル人をカナンへ導く時に語った言葉が記されてます。
 「日よ、ギベオンの上にとどまれ、月よ、アロンの谷にやすらえ」。
 民がその敵を打ち破るまで、日はとどまり、月は動かなかった。(ヨシュア記10:12-10:13)


今日の聖書は1611年に出版されたジェイムズ王訳を基とし、その中で「日と月は動きを止めた」とされています。ところがヘブライ語のテキストでのその箇所は「日と月は通常の働きをやめた」、つまり「光ることをやめた」の意味を示していることが分りました。
ヘブライ語でいう「stand still(停止する)」はバビロニアの天文学のテキストで日食を示す言葉と同じルーツを持っていることからも、太陽が止めたのは「動き」ではなく「光ること」であると解釈することが正しいと考えたのです。

このような解釈はこれまでもあったそうですが、これまでの研究者はこれが皆既日食であると考えたため、確認できなかったそうです。

今回は、金環日食の可能性も含め、ラムセス2世の第13王子であるメルエンプタハの石碑にあるイスラエル人がカナンで独立した紀元前1500年~1050年の間の日食、地球の自転も考慮した新しい日食計算方法で確認したところ、紀元前1207年10月30日午後の金環日食だけがこれに相当することが判明したいうことです。

  竹迫さん作 EMAPで表示させた 「ヨシュアの金環食」

またこの計算から、メルエンプタハの統治は紀元前1210~1209年に始まり、ラムセス2世の統治は紀元前1276~1210年に行われたと算出されました。もしこの計算が認められれば、古代エジプト研究での王の治世年代が変更されることになり、大きく影響を受けることでしょう。

原始人の暦?2017年06月01日

以前、何かの本で
 「原始人が月の満ち欠けを観測して、その日数を骨に刻んだ」
とされた骨の写真を見たのですが、それが何の本なのか分らず、骨の呼び名も分らず、調べようにも調べられない、そんな数ある案件の一つが解決しました!

久々に町の図書館に行き、新しく入った本の中に
 「数学 ~新たな数と理論の発見史~」(丸善出版、2016)
があり、その中にその骨のことが書かれていました!! この骨は「イシャンゴの骨」と呼ばれるのだそうです。

この本にはそれ以上の詳しいことは書かれていなかったのですが、呼び名さえ分れば、あとはネットで調べることができます。早速ググると、Wikipediaのページがありました。


Wikipediaによると、「イシャンゴの骨」は1960年にナイル川源流域にあたるエドワード湖の北西のイシャンゴと呼ばれた段丘で見つかった遺跡の中にあったそうです。遺跡は小さな集落が火山の噴火で埋没したもの。骨の年代は、初め紀元前9000~6500年頃とされていましたが、発見場所の遺跡の年代測定をやり直したところ、1万6千年~2万5千年であるとされています。

「イシャンゴの骨」にある刻みには、「数学説」と「カレンダー説」があるといいます。しかし「カレンダー説」は、イシャンゴの住人たちが雨季と乾季で住む場所を変えていたと考えられることからの推測とのことなので、根拠が弱いです。「数学説」も、諸説あるものの、どれも根拠が弱いようで。

  Wikipediaより

原始人が動物の骨にわざわざ刻みを付けるからには、何かしらを数えたワケで。
当時の人たちには、どんなものを数える必要があったのだろう?
それを解明するには、やはり刻みの数からだろうか?

ja.wikipedia には、他にも様々な天文に関係ある、またはありそうな、遺産が紹介されています。
  https://ja.wikipedia.or.jp/wiki/天文遺産の一覧

古代エジプト ピラミッドの方向付け方法2017年03月21日

『骨・岩・星』に、エジプトのピラミッドがどのように東西南北に正確に向けられたか、その方向付けの方法の推測が紹介されていました。


ピラミッドの向きというと、非常に正確に東西南北に(つまりは”真北”に)向いているとよく書かれ、語られますが、実はそれはクフ王の大ピラミッド(通称、グレート・ピラミッド)での話。そして北の向きのズレはたったの3分角!

  イラストは WORLD-MYSTERIES.COM より


古代エジプト人がどうやって真北の方角を調べたのは、その方法には諸説あります。

a.小さいピラミッドを作り、太陽光でできた影から南中時の影の向き、つまり真北を調べた

b.観測用の円形の壁を作り、北天の星が昇る方角と沈む方角を調べ、その中点の北を調べた

いろんな説がありながらも、たった3分角の精度で真北が得られたかは謎でした。

ところで、実はクフ王以外のピラミッドでは、北の方角にずれがありました。そしてクフ王の時代近くではズレ量に直線的な変化が見られます。

  チャート1

チャート1の a は紀元前2640~1850年のピラミッドの北の方角のズレ量。縦軸は角度の分。
b は、紀元前2600~2430年の部分を拡大したもの。
なお、プロットした点は、それぞれのピラミッドの王の在位2年の年代。これは、ピラミッドの作り始めが王に就任してから2年後あたりであろうとの推測から。
aおよびbの線については後で説明。
 1:メイドゥームのピラミッド  2.屈折ピラミッド  3:赤いピラミッド  4:クフ王
 5:カフラー王  6:メンカウラー王  7:サフラー王  8:ネフェルイルカラー王

2000年にケンブリッジ大学の女性エジプト学者ケイト・スペンスがNATURE誌に新解釈を報告しました。それは、ピラミッド建築に当たっての北の方角は、おおぐま座ζ星(ミザール)と、こくま座β星(コカブ)が北天でまっすぐ上下になった位置を ”北” としていた、という説です。


星空の中での天の北極の位置は、地軸の歳差運動で変わります。そこで、この垂線が真北から西に3分のずれになる時期を調べると、それは紀元前2467年になります。このことから、クフ王が戴冠したのは紀元前2479年と考えられます。
一方、歴史的考察によるクフ王のの戴冠は、それより75年古い紀元前2554年頃といわれています。しかしエジプト学では、ファラオが在位した年代は資料や調べ方で20~200年の誤差が生じているといいます。

他の王についても確認してみましょう。
エジプト第四王朝の創始者であるスノフル(年代での北のズレ量図の ”1” )は、メイドゥームに初のピラミッドを作りました。メイドゥームのピラミッドは、地理上の北から18分角西に向いています。歴史的な年代ではスノフルは紀元前2600年頃に王位に就いています。これを、グレート・ピラミッドの時のように歳差運動を考慮したミザールとコカブの子午線通過が18分角西にズレる時期を調べると紀元前2526年となり、これもクフ王の時とほぼ同じ、74年の差が生じました。

今度はクフ王の後にくる時期の事例を見てみましょう。
ギザの南、アブシールに建てられた第五王朝のピラミッドは、第四王朝のものと異なり、廃墟状態にしか残っていません。

  
ネフェルイルカラー王(年代での北のズレ量図の ”8” )のピラミッドの北は、東に30分角もずれています。この角度を2星の子午線通過の歳差でのズレから計算すると、戴冠の年は紀元前2372年ということになります。これまでの歴史的考察による年代は紀元前2433年で、その差は61年。これまでのズレとほぼ同じ年数となります。

ところで、奇妙なこともあります。図の ”5:カフラー王” と ”7:サフラー王” の北のズレ量が、右上がりの ”a” の線と重なりません。
そこでこの2つの点の方位を、その値のまま反転させると、みごと ”a” の線にほぼ乗ります。

  チャート2

ここで考えられるのは、2星の子午線通過には2つのパターンがある、ということです。つまり、こぐま座コカブが上になる場合と、おおぐま座ミザールが上になる場合です。


これまではミザールが上になる場合で年代を求めていました(”a”の線)が、コカブが上になる場合の線(”b”の破線)を引いてみると、”5:カフラー王” と ”7:サフラー王” がみごとに線上に重なります。

  チャート1の下半分を再掲

以上が、2000年11月にNATUREに載ったスペンス女史の論文の内容です。
おおぐま座ミザールとこぐま座コカブの2星の子午線通過を使ってピラミッドの建築年代を調べる方法では、チャート2で分かるように歴史的検討された年代(直線”a”)とは一定の差(直線”b”)があるものの、平行線となっていることは、歴史的検討された年代にエラーがあるのかもしれません。

ところで、スペンス女史は論文の中で、別の2星、おおぐま座εとこぐま座γの子午線通過を使った方法についても検討しています(チャート2の破線”c”)。こちらは線の傾きが異なり、また値も異なります。

これまで古代エジプト人の天体観測の技術は、その証拠が残っていないためにあまり高く無かったと考えられていましたが、このような精密な観測ができたということは、その考えを改めないといけないのかもしれません。

  参考文献:『骨・岩・星』(クリス・ターニー、日本評論社、2013)
         『宇宙観5000年史』(中村士/岡村定矩、東京大学出版会、2011)
         nature の論文 から図を使用

コペルニクスは水星を見たか?2015年05月03日

今、日没後の西空低くに水星が見ごろ。


ところで、水星というと、「コペルニクスは水星を見たことがなかった」という話が天文書に書かれることがあります。中には臨終の間際に「惑星の中で水星だけ見たことがないのが残念だった」と語ったとする本までタマに見かけます。

では、コペルニクスは本当に水星を見たことがなかったのでしょうか?

以前、スカイウォッチャー誌か星ナビ誌で金井光男さんが、この逸話を取り上げたことがありました。その中では、コペルニクスがいた地域では、夕方になるといつも霧がかかるので、そのために水星を見ることができなかったのかもしれない、と書いていたような記憶があります。

NASAのADS(Astropphisical Data System)から、1892年の The Observatory誌の論文を得ることができました。今ではどういう検索キーワードを使ったか、思い出せませんが。



このレポートによると、1892年当時すでに、コペルニクスが死の床で、水星を見たことがなかったことを嘆いていた、と語られていたことが分かります。
この論文に、いつ頃、誰の記述からコペルニクスのこのような話が生まれたのか書かれているようなのですが、私の英語力では、よく分かりませんでした (^^ゞ

どうやら、コペルニクスの『天球の回転』の中で使っている惑星の位置データが、過去の観測データのほかにコペルニクス自身が観測したものも扱っているのに対して、水星だけは過去のデータだけだったことから、このような話が生まれたのではないかと。

逸話が本当かどうかは分かりませんが、位置データを測るほどに水星を観測できなかったのは確かなようです。

オリジナルな星座絵2015年04月23日

星座絵のイラストは、日本ではフラムスチードの星座絵がよく使われますが、欧米ではそれ以外の星座絵も使われているようです。例えば、フリーのプラネタリウムソフト Stellarium では次のような星座絵を使っています。

日本でオリジナルな星座絵を最初に描いたのは、天体写真家でイラストレーターの藤井旭(あきら)さんかと思います。彼は、1976年に『ふじい旭の 新星座絵図』(誠文堂新光社)を出版しました。

そのイラストはその後、天文ガイド誌や、星の手帳社などで使われています。星の手帳社のネットショップでグッズを購入することができます。

  ふじい旭の 新星座絵図での季節の星座クリアファイル

 星の手帳社のトップページ(ここからは上のページが探せません ^^;)

その後、オリジナルな星座絵を描いたのは、『春・夏・秋・冬の星座博物館』(山田卓、1983、地人書館)でしょう。

個人でも、オリジナルな星座絵を描く方もいて、先日 FaceBook に公開されました。ネコ好きなので、全ての星座をネコにしたものです (=^・^=)

おもしろいのは「にゃこかい座(うしかい座)」かな。ネコが2匹のイヌを連れています(^o^)
下は「にゃたご座(ふたご座)」。
   (これらの画像は、作者から掲載の許可を得ています)

こういう自由な発想って、イイものですね。

津軽の北斗七星神社2015年04月19日

ずっと以前に、津軽に、北斗七星の星の並びに神社が建てられ、祀られた、という話を読んだことがありました。それが何かは、もはや不明。月刊誌『ムー』だったのか、あるいは古代日本史を研究している誰かの本だったか。


私が覚えている話はこんな感じ。

青森県にある、北斗七星の神である妙見菩薩を祀った神社の配置を調べると、北斗七星の並びに配置されていた。これは平安時代に坂上田村磨が蝦夷征伐のため東北に遠征した際、京の鬼門(北東)の果てにある津軽に、北斗七星の並びに神社を建て、京の守護にあてた、と。


この話の出典をネットでいろいろ検索すると、荒俣宏さんの『「歌枕」謎ときの旅』という本に書いてあるようです。ということで、その本を取り寄せてみました。


それによると、話がちょっと、というか、ずいぶん違っていました。

弘前市の北にある 熊野奥照神社 が所有する古文書に、岩木山を中心として十二里四方納まる範囲に点在する七つの神社が北斗七星の並びになっている図が描かれていた、とのこと。
また社伝によると、次のとおり。

 当時の津軽地方は王城の鬼門にあたり、恒武天皇の時代に坂上田村磨が平定した津軽に七つの社を建て、そこに武器を遺棄して、あたかも田村磨将軍がこの地に常駐するかのごとくに見せかけることにした。また七社は北斗七星の形に配して、星の威力を借りて鬼門を封じたという。

このような北斗七星の封印は、天台密教最強の守護防衛呪術とされ、天台宗では「北斗供」と呼んでいるそうです。北斗七星をかたどった七つの壇を設け、護摩を焚き、国家安寧を祈ると。


しかし、この熊野奥照神社の口伝は、とても怪しい、というか、近代に作られたもの、というのが本当のところでしょう。
というのは、平安時代当時に考えられていた日本地図は、奈良時代の僧侶・行基が描いた「行基図」のような、日本は東西に伸びている、というものだったからです。

  「行基図」(『捨芥抄』1656年)

また、今読んでいるマンガ『陰陽師』(岡野玲子、夢枕獏原作)の第3巻にある「鬼やらい」のときの祝詞に次のようにありました。

  今年今月今日今時
  大宮内に神祇官宮主の
  祝ひまつり
  敬ひまつる
    (中略)
  千里の外 四方の堺
  東方陸奥(むつ)
  西方遠値嘉(とほかち)
  南方土佐(とさ)
  北方佐渡より
     (以下略)


このように、確かにこのクニの”東方”の果ては”陸奥”と考えられていたことが分かります。
なので、津軽は決して”北東”の鬼門の方角にあるとは考えられていなかったのですね。

怪しい伝承というのは、裏を取ってみると、結構 近代の作 というものがあるようです。

八戸市の庚申塚2015年04月08日

2014年09月28日の日記に八戸市の「二十三夜塔」のことを書きましたが、そこから近いところ、八戸市民病院の近くに庚申塚があることに気づきました。


「庚申(こうしん)塚」は、歴史のある街には結構残っています。

中国の民間道教によると、人の体内に三尸(さんし)という虫がいて、日々の善行や悪行を調べていて、それが庚申(かのえ・さる)の日の夜に寝ている間に体内から抜け出て天に昇り、天帝に人の罪過を報告しに行くと考えられていました。
そこで、見に覚えのある人たちは、庚申の夜は、集まって飲み食いをしながら、眠らないようにしたのが「守庚申(しゅこうしん)」とか「庚申待(こうしんまち)」と呼ばれ、その集会場には石塔が築かれたといいます。なお、こういった集会を「講」といいます。

もっとも、日本民俗学の生みの親 柳田邦夫はこの説に異を唱えています。それは、日本には古くから、日待ち・月待ちといった習俗があり、庚申待ちもその一つで、日本由来のもの、というのです。

どちらが由来かは素人の私には判断つきませんが、理由はともあれ、昔は庚申の日の夜には人々が集会場に集まって、飲み食いをしていた、ということは確かだそうです。

なお、八戸市のこの石塔は「横町の秋葉様」の祠のそばにあります。
「秋葉様」というのは、説明書きによると、江戸時代初期に始まった火防(ひぶせ)の神様として信仰されていたそうです。
文政七年(1824年)春に横町から出火し、中町まで類焼しました。
また、昭和三年十一月にも横町で大火が起こりました。
このため村民たちは火防の神である秋葉様を村の要所にお祀りして平穏無事を祈ったそうです。

また、天明三年(1783年)六月に横町・中町・山道・館下の庚申講の仲間が、天明の飢饉のときに建てたものだそうです。


二十三夜塔や庚申塔といった石塔は、その信仰がすでに廃れ、またその内容も子々孫々に伝えられていないので、都市開発と共に無くなりつつあります。
でも、自分たちが住んでいる土地の歴史を実感できる遺産として、残し、伝えていって欲しいものです。

晴明神社へ行ってきました2015年03月17日

久しぶりの京都ということで、どこの寺社へも行かないというのは残念なので、とりあえず一箇所だけ行けるように準備していました。どこにしようか考えた末、行ったことのない『清明神社』を選びました。

シンポジウムが終わって京都駅に着いたのが17時。そこからホテルへ行きチェックインして、バスかタクシーに乗るために再び京都駅へ。ここで17:30.
清明神社は18時で閉門なので、確実に早くに行けるよう、タクシーに乗車。

晴明神社に着いたのは17:50。急いで神社に行って、とにかく写真を撮りまくり。

道路ぎわには「一の鳥居」。
通常、鳥居の中央の額には神社名やお祀りしている神様の名が書かれますが、晴明神社では晴明の祈祷護符である五芒星が記されています。

「一の鳥居」をくぐると、奥に本殿が見えます。
道の左側に、上に球が載っている「日柱」。その右に三日月が載っている「月柱」。あわせて「日月柱」。ともに、明治37年(清明公九百年祭記念)に篤志家による寄贈とのこと。

その左には「一條戻橋」。欄干のところに式神がいます。

「二の鳥居」。ここが18時になると閉まります。

本殿入り口には、晴明紋(五芒星)の記された提灯。

「二の鳥居」をくぐると、奥に本殿が見えます。左に売店(「授与所」といいます ^^ )。
右に社務所。

「二の鳥居」をくぐってすぐ右に手水舎。そこに「晴明井」という、晴明が念力で水を湧き出させたといわれる井戸があります。解説によると、水がこぼれおちる方角は、その年の恵方だそうです。

「本殿」。左に「阿部晴明像」、右に「厄除桃」がおかれています。

「阿部晴明公像」。衣で隠れた手では印を結び、夜空の星を観測している像なのだそうです。

本殿には何が祭られているのでしょう。両脇には金色の獅子が鎮座しています。

社務所の近くに、「謹告」の看板。映画で阿部晴明と晴明神社が有名になったことから、勝手に「陰陽師グッズ」や「開運グッズ」の販売が絶えないことについての勧告です。

   謹告
当神社南隣の田島織物株式会社(陰陽師本保)で販売されています「陰陽師グッズ」や「開運グッズ」等々は、神社でおはらいや御祈祷をしたものではございません。また、何ら関係もありません。
こういった紛らわしいものを近隣で、販売することそのものが不適切で、神社の御祭神・阿部晴明公の御神徳を著しく冒涜するものと考え、同社に販売の中止を申し入れました。が、未だ改善の様子がないどころか、事態は深刻なものとなっております。
参拝の各位におかれましては、事情をご賢察いただき、左記の点ご留意ください。

   記
一、田島織物株式会社の「陰陽師グッズ」、「開運グッズ」等を持ってのご参拝がご遠慮ください。
一、同「グッズ」は、御札、御守とは言えません。納札所には決して入れないで下さい。
一、右行為をされる方については、法律上、信仰上の立場から事情をお伺いすることがあります。ご協力お願いします。

う~~~ん、なかなか深刻な問題だ。帰り道で見たら、本当に神社のすぐ南にお店がありました(*_*)


PS.阿部「晴明」を「清明」と誤変換していました。これを訂正しました。
   ご指摘下さった Sakkaさん、ありがとうございます。