聖書の天地創造の日2017年03月16日

『骨・岩・星』に、旧約聖書にある天地創造の日付がどのようにして得られたかが紹介されていました。

wikipediaの『天地創造』のページにあるように、1654年、イギリス国教会のアイルランド大主教ジェームズ・アッシャーとケンブリッジ大学副総長のジョン・ライトフットが聖書の記述から逆算して、旧約聖書にある天地創造は紀元前4004年10月18日~24日にかけて行われ、アダムの創造は紀元前4004年10月23日午前9時だったとしたといいます。そしてこの日付はキリスト教圏で長らく信じられていました。

ここで知りたくなるのは、アッシャーとライトフットが、どうやってこの日付を求めたか、ということです。『骨・岩・星』の第11章『時間の限界に向けて(地球の年齢)』に、次のように紹介されています。

キリスト教文化でも地球生成の年代を見つけようとした長い歴史がありました。
リビア生まれの歴史家であり旅行家であるユリウス・アフリカヌス(160頃-240頃)は、天地創造から紀元221年までの世界の歴史を扱う「年代史」を書きました。アフリカヌスは、すべての先史は「宇宙」の週に形成され、その創造の「一日」はそれぞれ1000年続いたとしました。そして地球は、紀元前5500年にできたと主張しました。そして西暦6年は世界の始まりから5200年が過ぎた、と記しています。

一方、16世紀にマルティン・ルターは、その根拠は不明ながら、創造を紀元前4000年であると主張しました。その見解はプロテスタントで広まり、シェイクスピアの『お気に召すまま』の中にも、「このちっぽけな世界は6000歳くらい」というロザリンドの言葉が記されています。

ところで暦年を表すとき、西ローマ帝国崩壊までは、ローマのディオクレティアン皇帝の戴冠からの年数を使っていました。これは今日では紀元284年と考えられています。しかしディオクレティアン帝は初期教会の弾圧者でした。
(今でいう)紀元6世紀になってスキタイ人僧侶ディオニシウス・エクシグウス(デニス・ザ・リトル、小デニス)は525年に復活祭の日を計算するようローマ教会から命じられた際、暦年を表すにはイエス・キリストの生誕の日を基準にすることにしました。これにより後に、「Before Christ」を表す「BC」と、「アンノ・ドミニ(われらが主の年)」を表す「AD」が導入されました。

小デニスはイエス・キリストが生まれたのを紀元前1年12月25日としキリストの生涯の初年を紀元1年としたのですが、この「キリスト紀元」の年が誤ってました。
古い記録によるとキリストはアウグトゥス・カエサルの治世28年目に生まれたとされていました。ところがアウグトゥスは治世のうち最初の4年間はオクタビアヌスという名で知られていました。小デニスはこれを見落としていたのでした。
また、ヘロデ王が紀元前4年に死んだことが分かっているため、キリストの本当の生誕は紀元前4年である、ということになるわけです。

話しを天地創造の日に戻します。
プロテスタントの司教アッシャーは、他の研究者が行っていたように、旧約聖書に出てくる人物とその生存年のリストを作りました。リストはアダムから始まります。創世記によると、アダムは長男セスを130歳のときに授かり、930歳まで生きたとされています。こうして各人の寿命が積み重ねられていきました。
またアッシャーは、小デニスの4年の誤りを初めて認め、その結果、地球の年齢をマルティン・ルターの提案の4年前にしたのでした。

またアッシャーは「創造」の年月日にもう少し技巧を凝らしました。神は太陽と地球との間の対照の生ずる時点で宇宙を創造したと信じられていました。アッシャはこれを、夏至・冬至あるいは春分・秋分のいずれかだと考えました。そして「創世記」によると、アダムとイブがエデンの園に入ったときに果物が用意されていたことから、創造の日は北半球が秋分のときでなければならないと解釈しました。

また、神がユダヤ人の習慣で休日である土曜を「創世記」の七日目の休息をとったなら、創造は日曜でなければならないと考えました。アッシャーは当時発行されていた天文表を用いて、創造の日の秋分は10月25日火曜日であることを突き止めました。彼はこの計算を、冬至イギリスの島ではなを使われていたユリウス暦で行ったため、10月の奇妙な日が秋分の日になったのでした。

こうしてアッシャーは1654年に、「我々の年代記(ユリウス通日)による時間の始まり(創造)はユリウス暦710年10月の23日目の日に先立つ夜」と宣言したのでした。これは紀元前4004年ということになります。


当時信じられていたさまざまな事柄を踏まえて、また聖書に記された多くの人の寿命をリスト化するという苦労の末に求められた「天地創造」の日。
現代の私たちは、その日が正しいか否かをすぐ判じたがりますが、人々が築いた歴史の、土台にある一つの事例として、とても興味深いものです。

古代インドの宇宙観2016年08月25日

天教年会@宮城のポスター発表に、とても興味深いものがありました。

『日本における古代インドの宇宙観の普及』(山本、株本@武庫川女子大学)





口頭説明を聞いてなかったのでハッキリとは言えませんが、調査の発端になったのは、2012年の天教年会@和歌山大学での 廣瀬匠氏(京都大学文学研究科)によ発表『誤解だらけの天文学史 ~ 「古代インドの宇宙観」を例に」によるようです。

廣瀬氏は、「古代インドの宇宙観」として知られる、大地を象が支え、それを亀が支え、さらに根火が支えるさまについて、これを言及する古代インドの文献が実在しないことを発表していました。株本さんらはこれを引き継いで、日本でどのように伝えられていったかを調査したようです。



日本でのこの古代インドの宇宙観の図は、大正時代に科学解説者として高名だった原田三夫氏(1924年に『子供の科学』を創刊!)の著書にまず現れたそうです。
1920年と1925年の本には、明瞭ではないものの、須弥山を中心とした大地を象が支え、それを亀が支えている図が載っていました。ヨーロッパで1822年に出版されたN.ミューラーの本には、これをさらに蛇が支える図が使われていたので、原田氏がどんな文献からこの図を得たか不明です。

次に見いだされたものは、東京大学の鈴木敬信氏の『宇宙 古代宇宙観から膨張宇宙説まで』(恒星社、1935)にある記述。
「しかし彼等の間には科学的な宇宙観は遂に芽生えぬやうであつた。その頃の考へとして、地は丸い球で、大象の背に乗つて居り、その象は大亀の背に乗つてゐると言ふ事が伝へられてゐるが、所詮kこの程度であつたのである。或はもつと進んだ考へもあつたかも知れない。或はもつと進歩したかも知れないが、今には伝はらねば知る由もない。」

続いて原田三夫氏は、1948年の著書『子供の天文學-太陽系の話-』に
「インドでは…(中略)…世界は四匹の大象の上に支えられていて、その象が大亀の上にのつているということになっておつた。これは多分時々起こる大地震から思いついたのであろう。」
と書いていたそうです。

1952年には鏑木政岐氏が、1953年には島村福太郎氏が、大亀の下に大蛇のある図を使いました。
一方、1954年の鈴木敬信氏の著書と、野尻抱影氏の著書と、1957年の原田氏の著書には大亀までの図が載っていました。

その後、1964年に鈴木敬信氏が大蛇まで描かれた図を使うようになると、その後はその図があちこちで使われるようになりました。

「古代インドの宇宙観」とする図の変遷は分かりましたが、いずれにしろこの図が古代インドの宇宙観を表したものでないことには変りはありません。早くにこの図が使われなようになって欲しいものです。特に「宇宙検定」とかで(+_+;

黄道12星座は誰が作った?2016年07月26日

県立図書館から借りた本『古代メソポタミアの神話と儀礼』(月本昭男、岩波書店、2010)にとても興味深いことが書かれていたので、ここに転載します。
欧米のバビロニア学研究者はどうしてもその分野の重鎮の意見に影響を受けてしまうようですが、その影響の少ない日本人による、実際に粘土板を自分で読んで書かれた本は、とても貴重です。

これまでバビロニアの星座の創造譚は『エヌマ・エリシュ』と呼ばれる文書の第V粘土板にあり、次の訳が充てられていました。
  (それから)かれは偉大な神々のために落ち着き場所を設けた。
  かれらの似姿であるそれぞれの星、十二宮の星座を置き、
  一年をさだめ、基礎的割りふりとしてから、
  十二の月にそれぞれ三つの(旬日の)星座を配置した。
これは『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』(1978年)のもので、この日本語訳はその当時に比較的新しい本が底本とされていました。
これらの本に「十二宮」と書いてあるため、他の本では「黄道十二星座」と書かれたりもしています。まぁ、意味にさほど違いはありませんが。

ところが最近見かけた本(書名 不明)に、「これは12の星座を作ったとだけあり、黄道12星座のことではない」と書かれていました。これは興味深いものでした。
そして、今回手にした『古代メソポタミアの神話と儀礼』には、それについて詳しく書かれていたのでした。

以下、「第4章 古代メソポタミアの神話世界から見たグノーシス創世神話」から転載。

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   一 十二宮と七惑星天の創造

(略)こうしたグノーシスの世界創造神話は、たとえば『この世の起源について』がそうであるように、旧約聖書の天地創造物語を前提にする・ところが、創世記の天地創造物語における天体の創造はあくまでも時間的秩序を保持する「しるし」としてであって、十二宮や五惑星はもとより、太陽と月でさえもその名は明示されない。創世記の天地創造物語を踏まえた詩篇七四篇16節や一三六篇8-9などでも、太陽と月の創造には触れるが、十二宮や五惑星への言及はない。旧約聖書における星座や惑星は、ヨブ記九章9節、三八章21、32節やアモス書五章8節を別にすれば、その多くは天体崇拝に対する批判的な文脈で言及されるのである。一年という時を区切る「星座」、月ごとの三つの星、そして月と太陽の創造が明記されるのは、むしろ、創世記の天地創造物語が前提にしたとみられるバビロニアの創世神話『エヌマ・エリシュ』のほうであった。宇宙の混沌を象徴する目が女神ティアマト(海)を撃破したバビロニアの主神マルドゥクは、彼女の屍体の半分をもって天蓋を造り、宇宙の時間秩序を確立するために、そこに「星座」を据えた。

  彼は偉大な神々のため天の居場所を造り、
  星々の姿を星座として据え、
  年を定め、諸領域を割り振り、
  十二の月に各々三つの星を据えた。

 ここに「星座」と訳したアッカド語ルマーシューは、かつて「十二宮」解されることもあったが、バビロニアの天文学において黄道十二宮が明瞭な形で登場するのは前五世紀以降である。したがって、前二千年紀後半に成立した『エヌマ・エリシュ』におけるこの語が、当初から黄道十二宮と意味していたとは考え難い。「年を定め」以下の文が示すように、元来それは各月に三つずつ割り振られた星座もしくは恒星を指していたとみられる。星座を十二ヵ月に割り振る発想は古く、主としていわゆる「天体儀」文書に伝えられていた。新アッシリア時代のニネヴェ図書館から出土した円形の「天体儀」文書の断片は、三〇度ずつ十二の欄に分割され、各欄には円周部分から中心に向かって月ごとに星座もしくは恒星の名を記している。この種の月別星座一覧は、すでに前一一〇〇年頃に記されたアッシュル出土の『アストロラブ(B)』文書にほぼ完全に記されている。当該部分をいかに紹介しておく。
   (略)
 このような星座の三領域獣肉分の天文学的精査は、E.ワイトナーの研究に譲る子pと似するが、『エヌマ・エリシュ』におけるルマーシュー「星座」の創造がこれを前提にしていた、という天は確認されてよい。実際、ルマーシューは、セレウコス朝期の天文文書では黄道十二宮星座を意味するようになる。
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星座はやはりシュメール人が作った?2016年07月25日

7月4日の日記に「シュメール人は星座を作らなかった?」と書きました。それは、シュメール人の世界観は、天・地・海、太陽・月・惑星が神として祀られる程度のように見られたからでした。実際、シュメール人の遺物から星座にまつわるものや星座をうかがわせる物は出ていません。それなのに星座の起源がシュメール人とされるのは、バビロニア時代の粘土板に書かれた星座名が”シュメール語だった”、ただそれ一つだけだったからです。

シュメールの後の民族は、シュメール人の遺した文化を尊敬し、継承していました。そこで私が考えたのは、「バビロニア人は、学術名にはシュメール語を使ったのでは無いか?」というもので、それ故、星座名にはシュメール語が使われたのではないかと推測したのでした。

先日、県立図書館を訪れ、興味深い本を見つけました。
・望遠鏡以前の天文学(クリストファー・ウォーカー、恒星社厚生閣、2008)
・古代メソポタミアの神話と儀礼(月本昭男、岩波書店、2010)

『古代メソポタミアの神話と儀礼』の「第2章メソポタミアの天文学と占星術」に、とても興味深い記述がありました。
 メソポタミア文明の特質のほとんどの基礎を築いたシュメール人は、
 明らかに星座に名前をつけた最初に民族であった。いまだにわれわれに
 親しまれている星座には、おうし座、しし座、さそり座がある。
これは、よく書かれていることです。注目したのは以下。
 テクストによれば、例えば、シュメール人とバビロニア人の双方が「矢」と名付けた
 オリオンの弓(おおいぬ座α星)は、(足と肘を持つ)人間の姿をしたものによって、
 オリオンの弓(シュメール語では「アヌの忠実な羊飼い」、ではバビロニア語では
 「打たれる者」)で射られるものとして見られている。

ここで筆者は特に大きな意図をもってこのように書いたわけではないと思いますが、とても重要なことが書かれています。つまり、バビロニアの時代に、星座にシュメール語での星座名とバビロニアでの星座名の2つがあったということです!

シュメール語は表意文字なので、葦のペンで粘土板に書くにはとても面倒。それなのに星座の名前はシュメール語で書かれていました。同じ星座にバビロニアの表音文字での名前があるにも関わらずです。
ということは、やはり星座はシュメール人が作り、その名前がバビロニアにも受け継がれ、その一方でバビロニア人も独自に星座を作った、ということになります。これは大きな確信となりました!

この気づきを元に、改めて寺迫さんの「古天文の部屋」サイトにある「バビロニアの星座の名前」のページを見ると、「主にシュメール語(書き言葉)」と「主にアッカド語(話し言葉)」の2つが書かれていました。

ということで、星座はやはり、シュメール人が初めて作った、とするのが正しい、ということですね。

シュメール人は星座を作らなかった?2016年07月04日

星空案内人講座の「星空の文化に親しむ」の資料を作りに、まずとっかかりとしてメソポタミアの星座について書こうと、手元にある本やら図書館から借りてきた本やら読みあさっているのですが、なかなか文章がまとまりません(+_+;


星空案内人資格認定制度の「星空の文化に親しむ」についての以前の指導要領では、
  星座の起源は、5000年前のシュメール人にまでさかのぼる
としていたのですが、その後 星座の起源についての日本語文献が出るなどして、どうもシュメール人説が怪しくなってきたため、指導要領が大幅改訂されました(主な改訂理由は別ですが)。

私の作る新しい資料では、世界の古代文明での星座誕生について、それぞれの文明の世界観・宇宙観と関連づけて語ろうと試みました。そのため、メソポタミア文明の各民族の宇宙観を読み取ろうとしたのですが、取り組んでみて改めて自分の勉強不足を実感させられました。

それでもようやく筋が見えてきたのですが、結果は予想外なものでした。それは、”シュメール人が星座を作った” 説はかなり怪しい、というものでした。


「複数の川の間」という意味のメソポタミア地方で、紀元前3000年頃にシュメール人により多くの都市国家が作られました。この都市国家は古代ギリシャのポリスとは違い、それぞれが守護神を祀り、王はその代行者として行政と軍事を掌握していました。守護神には、天の神アン、大気の神エンリル、水の神エンキ、豊穣の神ニンフルサグなどの名が知られています。

シュメール人はくさび形文字を生み出しました。最初は絵文字でしたが、その後記号のような体型だった文字になりました。そして多くの粘土板文書が残されました。多くは会計に関係した物でしたが、神々の一覧や文書のリスト、そして物語などの文書が数点ありました。

シュメールの神々の一覧を表す文献からは、「海」を表す女神ナンムウが天地を生んだと書かれているそうです。そして『家畜と穀物』に「天地の山の上で」という記述があり、天と地は分離以前は一つの山であったと考えられ、そしてこの山は『エンリルと鶴嘴の創造』の中で、天の神アンと地の神キの子として生まれた大気の神エンリルにより分離されたとあるのだそうです。

神名一覧からは、太陽の神ウトゥ、月の女神ナンナル、金星の女神イナンナ、木星の神アサルルヒ、水星の神トト、火星の神ムスタバル、土星の神サグウシュが明らかになっています。

つまり、シュメール人の世界観では、天・地・海、太陽・月・惑星が神として祀られ、星があることは知っていたものの、星座を作るまでには至っていなかったようなのです。


紀元前1830年頃、バビロニア人によりメソポタミア中部の都市バビロンを首都にしたバビロン王朝が築かれ、バビロン第一王朝の六代王ハンムラビは前1792年にメソポタミアを再統一しました。
ハンムラビはシュメールの文明を受け継いで国内の治水工事や灌漑用水路の拡充につとめ、首都バビロンに巨大な神殿を建設しました。また、それまで神殿の祭司が持っていた権限を王朝の権限とする『ハンムラビ法典』を制定しました。

バビロニア人の宇宙観については、バビロン第一王朝の時代に成立したとみられる天地創造神話『エヌマ・エリシュ』に詳しく書かれています。実はこれには二つの天地創造神話が登場します。というのは、バビロニア人が祀っていた神はマルドゥクだったからです。

冒頭でまず、シュメールから伝わる天地創造譚か書かれています。はじめに男神アプスー(淡水)、ムンム(生命)と、彼らを生んだ女神ティアマト(塩水)がいた。このアプスーとティアマトから神々が生まれ、やがて天の神アヌ(シュメールのアンに相当)と、地の神エア(シュメールのエンキに相当)が生まれました。

このエア神は理解が広く、ものわかりがよく、、力も強く、祖父神よりも優れているといわれました。しかし兄弟の神々と群がって騒ぎ、女神ティアマトを困らせました。ティアマトは寛容でしたが、アプスーは怒り、エアを殺そうと考えました。このことを知ったエアは、逆にアプスーを眠らせて襲い、呪具や冠などを奪って殺してしまいました。そしてエアはアプスーの上に自分の住まいを建て、そこを≪アプスー≫名付け、聖所と定めました。

エア神と妻は神々を生みましたが、中でももっとも賢明なアルドゥクが生まれました。マルドゥクは入れ替わり立ち替わり世話をした保母たちにより、畏怖で満たされました。彼は他の神の倍の能力を持ち、また4つの風も自由に扱うことができました。
マルドゥクが風で遊ぶと、その暴風で他の神々はとても困りました。そこでティアマトのところに押し寄せて、マルドゥクをこらしめることにしました。ところがそれを知ったマルドゥクは恐ろしい獣などを作って自分の軍を作り、抗戦することにしました。こうして神々の大戦争が始まったのでした。

この戦争に勝利したマルドゥクはティアマトを殺し、それを二つに切り裂き、その半分を固定して天として張りめぐらし、もう半分を地に張り巡らして堅個にかためました。これがバビロニア人の神マルドゥクによる天地創造譚です。

  ティアマト女神(蛇の形)と戦うマルドゥク
  (シュメール時代の円筒印象から)

多くの神々を従えたマルドゥクは星空の整備を行いました。
  かれら(神々)の似姿であるそれぞれの星、十二宮の星座を置き、
  一年を定め、基礎的割りふりをしてから、
  十二の月にそれぞれ三つの(旬日の)星座を配置した。
このように、このとき初めて「星座」という名前が出てきます。確かに神が星座を作ったのでした。

バビロニア人の宇宙観では、天と地の形はシュメール人のそれと同じですが、シュメール人は天に日月惑星以外を配置するということは、文献上では書かれていません。まだ見つかっていないだけなのかもしれませんが。
しかしバビロニア人の世界創造譚では確かに記載されています。

星座の創造が、文書に記載があり、星名リストの文献も見つかっているバビロニア人ではなく、その前のシュメール人と思われているのは、星座名が、バビロニア人の表音文字ではなく、シュメール人の表意文字だからです。単にそれだけなのです。
となると、バビロニア時代から発掘された星名リストがどちらの文字なのかが気になります。

こいういうわけで、星座はシュメール人が作った、という話は、ものすご~く怪しくなりました。